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1886年 | 東京市本郷(東京都文京区) 父 謙造 医師でキリスト教伝道者 母 ひさの次男として出生 | |
1896年 | 10歲 | 幕張尋常高等学校高等科入学 父の死去により6月に同校中途退学、以後生活苦と闘病生活に苛まれる |
1901年 | 15歲 | 姉のガントレット恒子に迎えられ、養忠学校(岡山)に入学 姉の夫エドワード・ガントレットに西洋音楽を師事 |
1902年 | 16歳 | 関西学院普通学部へ転校 |
1904年 | 18歳 | 東京音楽学校予科入学 |
1908年 | 22歳 | 東京音楽学校(現在東京藝術大学)声楽科卒業 |
1910年 | 24歳 | 三菱財閥の総帥 岩崎小弥太の援助を受けドイツ王立音楽院作曲科に留学 |
1912年 | 26歳 | 日本初の交響曲「かちどきと平和」を作曲 |
1914年 | 28歳 | ドイツ帰国後 東京フィルハーモニー会管弦楽部首席指揮者となる |
1918年 | 32歳 | 渡米 カーネギーホールで自作の演奏会開催 |
1920年 | 34歳 | リヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」 日本初演(於帝国劇場) |
1922年 | 36歳 | 北原白秋・耕筰により「詩と音楽」創刊 |
1924年 | 38歳 | 近衛秀麿と日本交響楽協会を設立 |
1926年 | 40歳 | 日本交響楽団1月結成 9月分裂 10月茅ヶ崎町へ転居 |
1927年 | 41歲 | 「童謡百曲集』刊行。「赤とんぼ」「この道」「砂山」など多数収録 |
1930年 | 44歳 | 耕作から耕筰へと改名 |
1933年 | 47歳 | 日本楽劇協会内に「金曜会」を結成 |
1936年 | 50歳 | 仏 レジョン・ドヌール勲章受章 |
1937年 | 51歲 | 相愛女子専門学校(現 相愛大学)教授 |
1940年 | 54歲 | 演奏家協会を発足 会長に就任 オペラ「黒船」(当初の題名「夜明け」)を初演 序曲作曲は茅ヶ崎時代 |
1941年 | 55歳 | 朝日新聞「朝日文化賞」受賞 |
1942年 | 56歳 | 帝国芸術院会員 |
1943年 | 57歳 | 日本音楽文化協会副会長 |
1947年 | 61歲 | 歌劇「香妃」序曲付四幕七場完成。脳溢血を発症 |
1950年 | 64歳 | 日本指揮者協会会長 NHK放送文化賞を受賞 |
1956年 | 70歲 | 文化勲章受章 |
1965年 | 79歳 | 東京都世田谷区成城の自宅で永眠 |