歴史と作品
山田耕筰は現在の東京都文京区で、医師でありキリスト教伝道者だった父謙造と母ひさの下に生まれた。10歳で父と死別し、13歳の時(1889年) 岡山へ移り住み、姉である恒子の夫であったエドワード・ガントレットから西洋音楽の基礎を学んだ。関西学院を経て東京音楽学校(現・東京藝術大学)予科に入学。1908年に同校を卒業した。
1910年から3年間をドイツのベルリン音楽学校作曲科で過ごした。これは三菱財閥の総帥、岩崎小弥太の支援を受けてのものだった。留学3年目の年に日本人初となる交響曲「かちどきと平和」を作曲している。この留学期に演奏家ではなく、作曲家となる決意を固めたとされている。







自作の第一回管弦楽曲を指揮演奏(演奏練習風景)
29歳になった1914年に帰国した耕筰は前述の岩崎小弥太が組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部主席指揮者という待遇で迎えられたが翌年解散してしまう。31歳の時に渡米しカーネギーホールで自作曲などの演奏会を開催し大きな注目を集めた。
1924年、38歳の時に近衛秀麿と「日本交響楽協会」を設立。これが後のNHK交響楽団の前身となる。順風満帆に見えた耕筰のキャリアだったが、同協会で経理などの問題が勃発しわずか数ヶ月で解散という憂き目に会ってしまう。

第一回自作演奏会のプログラム






喜びを語る山田耕筰
茅ヶ崎に移ってきたのは1926年。
多額の借金を抱えるなど大きなトラブルを抱え込んだ耕筰だったが、茅ヶ崎の環境が再起に向わせた。茅ヶ崎在住とされる六年間の間に数多くの作品を作り上げた。この頃、芸術的な童謡を創作しようとする世の中の動きに同調し、全5冊の曲譜集「山田耕筰童謡百曲集」を発表した。
実は「耕筰」と改名したのは1930年から(それまでは「耕作」)である。これは自身のエッセイ「竹かんむりの由来」(1948年)によると、同姓 同名の人物が全国に100人以上いたのと、坊主頭にした耕筰が「作」の字の頭に毛を乗せた(ケケ) 悪戯からである。
さて、この頃になるとこれまでの功績から名声の数々を得ることになる。1936年「レジョン・ドヌール勲章」受章、1937年「相愛女子専門学校」(現・相愛大学)教授に就任、1940年「演奏家協会」発足に伴い会長に就任などである。戦時下となっていた1941年には音楽挺身隊を結成し、占領地での音楽活動を重服姿で行った。1944年には日本音楽文化協会に就任するなど戦後も活躍を続けたが、戦時中の活動などに関し、戦犯論争が繰り広げられた。
1948年に脳溢血で病床に臥し、以後は体が不自由な生活を送った。倒れた後も活動だけは衰えることは無かった。 1950年には日本指揮者協会会長に就任し、併せて放送文化賞受賞。1956年に は文化勲章を受章した。
1965年12月29日、80歳で山田耕筰は死去するが、奇しくもその前年の同日、三木露風が死去している。童謡「赤とんぼ」の作詩、作曲を担った両名が同じ『12月29日”にこの世を去っているのも何かの縁であろうか――。