~人と人とをつなぐ赤とんぼ~

 童謡「赤とんぼ」が次の時代に残したい音楽として、多くの日本人の心をとらえて、魅了していることは「赤とんぼ」の誕生と深いかかわりを持つ茅ヶ崎市にとって誇りであります。
 この史実を音楽的文化遺産として後世に歌い、語り継いでいこうと童謡「赤とんぼ」の碑の建立をいたしました。
次には、童謡「赤とんぼ」誕生のいきさつや背景を詳らかにして、作曲家山田耕筰の功績を顕彰し、茅ヶ崎との結びつきを検証するため、記念誌を発行することといたしました。
 作曲家山田耕筰の生涯を紐解いていくことによって、耕筰のありのままの姿に 近づいたり、その胸中を垣間見ることができるのではないかと考えております。
 少年時代から抱き続けていた母への思い、家族とのふれあい、人との絆、茅ヶ崎時代においては以前には全く無かった「家族愛」、そして安らぎのひと時があのたおやかに流れるような美しい旋律を生み出した源であるような気がいたします。
 童謡「赤とんぼ」から多くの人が抱くように、家族や周りの人々とのかかわり、そして古里への思いが無限に広まり、平和で安心できる世の中が続きますよう念じております。

童謡「赤とんぼ」の碑を建てる茅ヶ崎市民の会 より転載

争闘の渦を逃れて

 山田耕筰が茅ヶ崎に移ってきたのは 1926年(大正15年)、40歳の時。ドイツへの音楽留学や、カーネギーホールで日本人初の自作曲演奏会 を行うなど多くの実績を積み、華やかな20代から30代を過ごした後の出来事が原因となっている。

 1924年、近衛秀麿と共に「日露交歡交響管弦楽演奏会」を主宰したことを機に同氏と日本交響楽協会を設立。常設のオーケストラ創設を標榜した山田耕筰は二年後の1926年、近衛らと現在のNHK交響楽団の前身となる「日本交響楽団」を立ち上げた。 しかし楽団運営による疑惑など内部分裂が起こり、わずか8ヶ月で楽団は分裂してしまう。争いによって近衛支持派が多数を占め、山田耕筰は多額の借金を抱えてしまう。

 失意の中、数多くの楽器を抱え家族で訪れたのが茅ヶ崎だった。知り合いだった松竹キネマ株式会社 大谷竹次郎社長の紹介で、大重工務店所有の一軒家(市内南湖)を借りて住むことになる。その後は市内中海岸、東海岸北に移り住んでいる。これまでの資料では、山田耕筰が茅ヶ崎で暮らしたのは5ヶ月間であるとの記述が存在しているが、実際は6年の間この地で過ごしていた。それは長男の山田耕嗣氏(平成20年死去)が茅ヶ崎小学校に一年時に転入学し、同小学校を卒業しているという事実が実際のところである。

 争いで疲れ果てていた山田耕筰に 創作意欲を甦らせたのは紛れもなく、茅ヶ崎の自然や風土であった。当時の様子を物語っているのが耕筰自らによる手記である。

「争闘の渦を逃れて松翠香る茅ヶ崎の砂丘に愛児らと心ゆくまで遊び戯るとき、月夜遠浪の音に聴きほれて茅屋のヴェランダに仰臥するとき、煩忙な、あまりにも煩忙な公的生活によって阻まれてゐた私の創作意は、私の過去の生活に於いて、かつて味解し得なかった清澄な心境と静寂の聖座にぬかづく心とに促されて、生々として萌え出づるのでありました。
晴朗な湘南茅ヶ崎の大氣。その晴朗な大氣と愛児らの素純。それこそは私の胸底に徒らなる永き眠りを強ゐられていた「歌」に朗かな暁の光を黙じたのであります。」

 終わりに『"南湖の居にて”と書かれている其処こそが写真にある、耕筰が暮らした最初の住居である。

茅ヶ崎で産まれた名曲 「赤とんぼ」

 再び音楽への情熱を取り戻すきっかけとなった茅ヶ崎の自然や風土。移り住んでから暫くして制作に取り掛かったのが「山田耕筰童謡百曲集」だ。三木露風や北原白秋、野口雨情らによる作品にメロディを付けた同集。「この道」、「砂山」といったお馴染みの作品もここから産まれている。

 露風による「赤とんぼ」に曲をつけて発表したのは茅ヶ崎に移り住んでから5ヶ月となる1927年(昭和2年) 1月29日。曲想は自宅がある茅ヶ崎と事務所を構えていた東京新橋を往復する列車内で練られたともいわれている。この曲がレコードに収録されるのはそこからさらに4年後のことである。

 意外なことにこの名曲は発表当初はそれほど唄われることは無かったようだ。この曲が注目を集めるようになるのは第二次世界大戦が始まる頃のこと。勤労青年や女性層などによる「うたごえ運動」のレパートリーに挙げられたことで国中のあらゆる世代に浸透していった。叙情的なメロディであることやシンプルな三拍子リズムも急速に広まっていった要因として挙げられる。

 その後は様々な舞踊家によって取り上げられ、舞台で曲が奏でられることも多くなった。大戦後は小学校の教科書に掲載されたが「十五で姐やは嫁に行き」という歌詞が教育上ふさわしくないとの理由でこの部分の掲載が見送られていたこともあった。

茅ヶ崎に越してきた40歳の耕筰と菊尾夫妻
菊尾夫人母堂誕生記念 前列左夫人
資料提供:「この道」

山田耕筰の足跡

 茅ヶ崎で過ごした6年間の足跡の一つに、子どもたちが通った茅ヶ崎尋常高等小学校との関わりがある。「確か父が小学校に花輪なんかを贈っていたはずですが・・・」という長男耕嗣氏の記憶を下に「山田耕筰」と「赤とんぼ」 を愛する会が2005年、茅ヶ崎小学校を調査した。そこで見つかったのが、当時の寄付芳名帳に残された『黒板一 間物一面・花輪一対 昭和5年12月10日 寄贈者 山田耕筰 保管 唱歌室」という一文だ。音楽家として再起を来たし更なる飛躍を決心し、多忙を極めた時期にもかかわらず子どもたちを想う配慮を感じさせる微笑ましい逸話である。そして当時を知る人の記憶では、この黒板には五線譜が丁寧に引かれていたということである。

茅ヶ崎小学校に寄贈した際の芳名録
当時の学校風景